園主プロフィール
ご挨拶
こんにちは。小西園の黒岩博之です。
信州志賀高原の麓、山ノ内町平穏の上条という村で、りんご園を経営しています。農園の経営者ですので、一般的には園主という立場になります。
小西園はりんごを生産販売しております。
主力品種は「サンふじ」。りんごの中でも一番有名な品種です。
主に贈答の品としてお遣いいただくことが多く、高品質であることが絶対条件になりますので、量より質を求める栽培を心がけています。
一年間のほとんどの期間を栽培に費やし、販売するのは11月から1月という短期決戦。他の期間はその準備と言っていいかもしれません。
農業なんてイヤだ!という子ども時代
私は小西園の三代目としてこの地に生まれ、幼い頃から跡取りとして大事に育てられてきました。
特に祖父母からの愛情は時には過剰に思えるくらいでありましたが、村社会特有の文化もあり多くの方たちから可愛がられて育てていただいたように思います。
小学校時代は人を笑わせることが好きで、自分で言うも変ですがクラスでは人気者であったように思います。
学級新聞のコーナーに『スーパーくろちん』という私が主人公の四コマ漫画があったくらいです。もちろんズッコケ戦隊ものです。
その反面、父はとても厳格な人間であり、私のすることを制限しようとするきらいがありました。
思春期に入り、些細な希望も全て父に制限され、父の言うことだけを聞きその通りに生活しなければならない時期がありました。
父への反発もあり、跡取りとして期待されている環境が疎ましく感じ、家業を継ぐことへの拒絶反応が私を支配しておりました。
思春期特有の都会への憧れもあり、農村での暮らしそのものが嫌になっていました。父が不動産賃貸事業を始め会社設立したのも全く無関心でした。
都会に出てオシャレな生活をしたい!
学生時代を東京で過ごし就職した会社は楽器販売店。
中学生のころから音楽が好きで憧れていた職業でした。
都会での暮らしは楽しく仕事も順調。
好きな楽器に囲まれ、音楽を愛する人たちの手伝いができる。
営業成績もよく本当に楽しく充実した日々でした。
転勤先の札幌店に勤めていた女性と縁あって結婚。この生活を変える気は、少なくとも当時の私には全くありませんでした。
「長野に帰ろう」妻の言葉がきっかけ
そんな時、父が電話してきました。いつ帰ってくるのだ?
帰る気などさらさらない私は、父の言葉を無視していたのです。
私は仕事に夢中でした。忙しい日々に満足していました。
妻と両親が私の知らないところで話をしていることも知りませんでした。
妻の両親に呼ばれ、そろそろ将来のことを考えなさいと言われました。
そこで悟ったのです。
水面下で私を長野に戻すために両親が色々と手をのばしていることを。
もちろん拒絶反応がでました。
都会の人である妻の両親にもそんなことを言われたのは意外でもありました。
自分の生活が一番と思い、更に仕事に熱をいれていたある夜、妻に言われました。
「長野に帰ろう、両親の跡を継ごう」と。
妻は私よりずっと大人だったのです。
家庭のこと、年老いていく私の両親のこと、何より私自身の人生のことを見据えていたのです。
そんなことを一週間話し、長野に戻る決意をしました。
父のことを職人として尊敬できるように
長野に戻り小西園に入ったわけですが、これでよかったのかという疑問が常に頭の中にありました。
結局父の言うことに従った自分への忸怩もありました。
それでも跡を継ぐことを決めて帰って来たのです。ここで頑張らないと。自分にそう言い聞かせていました。
父の言うことを聞きながら仕事をしていたのですが、今思えば小西園の経営に疑問を持つことはありませんでした。
栽培に関しては初めてで何もわからず疑問の持ちようもありませんが、販売に関しては前職の営業で身に付けたスタイルが大いに役に立ったように思います。
この頃から父への反発は全くなくなり、職人として尊敬するようになっていました。
よいりんごをつくる技術は父を師としていました。
栽培は父がトップ、営業は私が。
そんなスタイルが数年続いていました。
二人の子どもを授かり賑やかな家族になり、あの時「長野に戻ろうと」言ってくれた妻と一緒に戻ってきて良かった。そんな風に感じていました。
突然の父の死
そんな矢先のことです。父が病に倒れあっという間に他界してしまいました。そのときになって気がついたのです。私には何もできない。栽培は父の技術には遠く及ばない。営業も最終的には父の判断を仰いでいた。
私自身では最終決定はしていなかった。私には何一つ責任がなかった。全て父がやってくれていたことに。
父の作っていた高品質なりんごは簡単には作れない
結果はすぐに出ました。
納得できるりんごが作れないのです。
先々代からの長いお付き合いのお客様は私を応援して下さっていましたが、全てのお客様がそうではありません。
「小西園も腕落としたね」「お父さんも無念だろう」そんな言葉が心に突き刺さりました。
生産者が販売をしている以上、お客様の望むものを提供できなければその意味はありません。
スーパーマーケットで扱っているりんごと変わらない品質のものであれば、お客様には小西園から買う理由がないのです。
当然売り上げも2年連続で落としました。
どうしたらよいのだろう。教科書を読み漁り、父が残した栽培日誌や資料を整理しました。
それでも父の作っていた高品質なりんごは作れませんでした。
95歳のお客様から励ましの言葉を
ある日、祖母の友人であったお客様から励ましのお電話をいただきました。
何故なのか判らないのですが、私が葛藤していることを見抜いたそのおばあさんは、「いつ食べても小西園のりんごは美味しいですよ」と話し始めました。
「東京にはこんなに美味しいりんご売ってないのよ」と。
私はたまらなくなり、父のりんごを目指しているが現時点では遠く及ばないことを打ち明けました。
するとおばあさんは「博之さん、それでいいのよ」と言うのです。
「当り前じゃないかしら。お父さんは何年掛けてそこまでの技術を習得したのよ」
95歳の方と電話で話しながら泣いてしまいました。
そのとき少しだけ良い意味で開き直ったように思います。現時点では仕方ない。努力を続けたらいいと思うようになりました。
人生を掛けて『本気』になることを知る
その頃、縁あって地元の青年会議所に入会しました。
若手経営者やいずれ経営者になる者がほとんどの団体です。
ごく少数の同業者もいましたが、会員のほとんどは異業種です。
そこで知ったのは、どんな業種であっても会員は普通の青年であること。そして少なからず仕事上で葛藤していること。
私も他の会員も同じようなものでした。みんな頑張っている。
頑張っている仲間に出会うことができ、大きな刺激を受けました。
そしてある言葉に出会いました。
「長という人が本気にならなければ、会社も、家庭も、地域も、JCもどんな団体であっても誰も本気になってくれはしない。」
体中に電流が駆け抜けたような衝撃がありました。「本気」ってどういうことだろう。私は本気になったことがあっただろうか。今の私は本気になれるか。本気でよいものを作る努力をしているか。
『本気』の試行錯誤の日々
ただなんとなく努力しているだけでは駄目だと知りました。
良いりんごを作ることに本気にならなければならない。
全ての作業を見直しました。
地域の先輩を訪ね技術的なことを指導してもらい、スタッフの誰よりも早く圃場に行き自分の作業を見せるようにしました。
営業、事務、雑務は夜に回し、日中はスタッフさんたちと一緒に作業する時間を大幅に増やしました。
私が思うよいりんごがどういうものなのかを積極的に話すようにして、今行っている作業の目的と意味を毎日確認するようにしました。
どうしても私と違う方法しかできないスタッフさんには申し訳ないけど辞めてもらう、その覚悟を私自身が持ったということです。それだけでなく、スタッフさんたちの助言に耳を傾けられるようになりました。
りんご作りは一年に一回しかできません。毎年複数のテーマを決め、そのテーマに関しては確実にクリアするように仕事をしました。
りんご作りは楽しい。「私のりんごは美味しい!」と自信をもって。
その積み重ねが数年前から現れてきたように思います。
自分自身が納得できる品質のりんごを作ることができるようになってきました。
お客様からお褒めの言葉をたくさんいただけるようになりました。
お客様に「美味しい」と言っていただけることが、りんご屋として最高の喜びであり、励みでもあります。
日本のどこかで私のりんごを食べて下さった方が笑ってくれたら、それで全てが報われるような気がします。
売り上げも僅かながらも伸ばしています。
私のりんごは美味しいよ、と自信を持って言えるようにまでなりました。今の私はりんご作りが楽しくなっています。
「本気」この言葉は、今の私の大きな支えの一つになっています。
父のりんごの品質にはまだ遠いことを知っています。
これからも父のりんごを目指して技術を磨きたい、いつか父のりんごに並びたいと思っています。